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一筋縄ではいかない武将たち ③【藤堂高虎】

2018/09/30
 
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失った指が指し示すもの 藤堂高虎(1556年―1630年)

主君を次々に変えた薄情者と言われる藤堂高虎。

しかし、彼は徳川家康臨終の際、外様大名として唯一その枕元にいることを許された者でした。

 

果たして高虎は信用ならない悪人だったのでしょうか?

1556年近江国犬上郡藤堂村。

藤堂高虎が次男として誕生した頃、藤堂家はほぼ農民と変わらない没落生活を送っていました。

1569年にまだ13歳の高虎が手製の刀と竹槍で北近江の一揆衆の一人を討ち取り、浅井長政から認められたのが彼の戦人生の始まりです。

高虎は更に姉川の戦いで武功を挙げ、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄と主君を変えて仕えました。21歳で羽柴秀長に仕え、中国攻め、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州攻めを戦い抜き、文禄の役では水軍として朝鮮水軍相手に軍功を挙げます。

 

一時出家した高虎は、豊臣秀吉に乞われて還俗。

伊予宇和島の大名となりました。

秀吉亡き後は徳川家康に仕え、高く評価された高虎は今治20万3000石の大名となり、外様でありながら譜代大名格で、徳川家康臨終の際には枕元にいることを許されたほどでした。

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築城の名人高虎

織田信長の安土城づくりで築城術を学んだ高虎は、高石垣と広い堀を特徴とした築城の名人。

宇和島城や伊賀上野城、水城の今治城などに腕をふるい、豊臣秀吉の聚楽第、徳川家康の江戸城大改修など政治の中枢となる城づくりの中心を担いました。

 

その高虎も眼病を煩い1630年には失明。

同年75歳でこの世を去りました。

高虎の死後、遺体を清めた者は、その全身に隙間なく弾傷や槍傷があったことに驚きます。

手や足の爪ははがれ、数本の手指はちぎれて無く、節くれ立ってまめだらけの両手でした。

家臣たちは、身長六尺二寸(190cm)の大男の高虎が満身創痍であったことを死後初めて知ったのでした。

文学や能楽、茶の湯もたしなむ文化人で、多くの主君を知る経験から人情に厚く、家臣には寛大だったと言われる藤堂高虎。

薄情というよりむしろ有能多才な苦労人だったのかもしれません。

 

 

明石 白(あかし はく)
ライター
愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

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