一筋縄ではいかない武将たち ④ | あかねいろ01

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一筋縄ではいかない武将たち ④

2017/09/22
 
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鉄の船を持つ海賊大名 九鬼嘉隆(1542年―1600年)

 

 

戦国の世に5000人が乗船することが可能な鉄の船があったと聞いて、驚かない人はいないでしょう。しかもその船の主が海賊と呼ばれる大名だとしたら―。

 

 

 

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九鬼嘉隆は志摩国英虞郡波切城で海賊衆定隆の三男として誕生。のち織田信長に仕える水軍として活躍の場を与えられます。

 

 

 

1576年、第一次木津川口の戦いにおいて毛利水軍600隻の船に対して九鬼水軍は300隻の船の大半を焼失する大敗を喫します。この敗戦に激怒した信長は、「燃えない船の建造」を命令。そこで嘉隆が考えついたのは船に鉄板を貼った鉄甲船の建造でした。嘉隆は莫大な資金を信長の協力で調達し、大筒、大鉄砲など3門を装備、幅約12m、長さ約22m、5000人(一説には6隻で5000人)を乗せることができる大船を作り上げました。

 

 

 

1578年第二次木津川口の戦いで嘉隆は6隻の鉄甲船を率い、再度やってきた毛利水軍600隻に大勝利します。この戦功によって彼は海賊から3万5000石の大名となったのでした。

 

 

 

九鬼水軍は羽柴秀吉にも重用され、1592年から始まった文禄・慶長の役では、九鬼嘉隆が総員9000人を指揮する水軍総大将となりました。九鬼を含む日本水軍は朝鮮水軍の攻撃を何度も撃退。以降、朝鮮水軍の積極的な活動は激減しました。

 

 

 

関ヶ原では嘉隆は西軍に、息子の守隆は東軍につきました。これはどちらかが敗れても家名を存続させるための嘉隆の戦略でした。嘉隆は伊勢湾の海上封鎖で安濃津城の戦いの勝利に貢献。しかし、本戦で西軍が壊滅したため、奪取していた鳥羽城を放棄して逃亡しました。

 

 

戦のあと、東軍として最初に戦功を挙げた息子の守隆は徳川家康との会見で父親の助命嘆願に成功。しかし、家臣豊田五郎右衛門が独断で嘉隆に切腹を促し、嘉隆はすでに自害していたのです。守隆は激怒し、五郎右衛門をその頃もっとも残忍な鋸引きという斬首に処したといいます。自らの敗戦ではないのに自害しなければならなかった嘉隆の無念、助命できなかった守隆の無念が後を引く話です。

 

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

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