一筋縄ではいかない武将たち ⑤ | あかねいろ01

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一筋縄ではいかない武将たち ⑤

2017/09/22
 
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影武者の影 真田信繁(1567年―1615年)

 

 

講談や立川文庫で人気を博した真田十勇士物で人気のヒーロー真田幸村。しかし確かな史料の中で「幸村」の名が使われたものは見つかっていません。「幸村」本人は死の前日まで「真田信繁(さなだのぶしげ)」と名乗っていたのでした。

 

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信繁は真田昌幸の次男で、兄は信幸。関ヶ原の合戦で信繁は父と共に西軍に、妻が本多忠勝の娘である兄の信幸は東軍に付きました。第二次上田合戦では、上田城に籠城する昌幸と信繁の真田隊によって徳川秀忠の軍勢が苦戦し撤退。真田の武名を高めましたが、結局西軍本隊が破れました。東軍にいた信幸の助命で二人は死罪を免れて高野山麓の九度山に流され、信繁はそこで14年間を過ごします。

 

 

 

しかし1614年、方広寺鐘銘事件を発端に徳川と豊臣の関係は険悪になり、信繁は豊臣側に乞われ、九度山を脱出して大阪城に入城。恩賞よりも「徳川家康に一泡吹かせたい」、それが信繁の目的でした。信繁は自分の部隊の甲冑を「真田の赤備え」と呼ばれる赤に揃え、浪人の多い寄せ集め部隊の士気を高めていったのでした。

 

 

 

大阪冬の陣で豊臣家首脳部は信繁の意見を聞かず、大阪城籠城を決定。そこで信繁は城の最弱部分をカバーするために真田丸と呼ばれる出城を築き、徳川方の眼を眩ませて寄せ手を撃退。真田の名を天下に轟かせました。

 

 

 

大阪夏の陣でも信繁は城外での戦闘や、兵士の士気高揚のための豊臣秀頼出陣を提案。しかし、豊臣譜代の大名や淀君にことごとく阻まれ、苦しい出陣となりました。それでも信繁は東軍本陣に攻め込み、家康に二度も自害を覚悟させるほど迫りましたが、最終的に兵力で勝る徳川勢に圧倒されてしまったのです。

 

 


信繁は、大阪四天王寺近くの安居神社の境内で越前松平家鉄砲組頭の西尾仁左衛門に討ち取られたと言われます。しかし、仁左衛門が討ち取った首は影武者望月宇右衛門(もちづきうえもん)の首だという説も。さらに、江戸時代の史料『採要録』には、秀頼とともに真田幸村や木村重成が薩摩に落ち延びたという記録が残っており、ファンの気持ちをそそります。

 

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

 

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