一筋縄ではいかない武将たち ⑦ | あかねいろ01

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一筋縄ではいかない武将たち ⑦

2017/09/22
 
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取り扱い注意大名 小早川秀秋(1582年―1602年)

 

 

 

小早川秀秋は木下家定(いえさだ)つまり秀吉の正室である高台院(通称:ねね)の兄の子として誕生しました。7歳で丹波亀山城に10万石の領地を、10歳で既に中納言の位を持った、気位が高く激しやすい性格のお坊ちゃんでした。

 

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秀秋は義理の叔父である羽柴秀吉の養子でしたが、秀吉は側室・淀殿が秀頼を生むと秀秋が邪魔になり、跡継ぎに恵まれない毛利輝元の養子に押しつけようと画策。しかし、毛利元就の三男である小早川隆景の希望によって秀秋は隆景の養子となりました。実はこれは秀秋という扱いに難しく、豊臣の血を持つ者を毛利家に入れたくないという隆景の自家を犠牲にして毛利家を救うウルトラCの策でした。

 

 

1597年の慶長の役で15歳の秀秋は軽率な行動があったと秀吉に咎められ、朝鮮半島からの帰国後に領地は半分の15万石にされ、越前へ転封。その理不尽な減封は秀吉の死後、徳川家康ら五大老によって見直され、秀秋は旧領・筑前30万石を取り戻します。

 

 

 

養子になったかと思えば家から追い出され、無実の罪で領地の没収。新たな養父小早川隆景や領地を取り戻してもらった徳川家康に対する恩義こそあれ、秀秋の秀吉に対する憎しみは募り、ここに関ヶ原への伏線は用意されました。

 

 

そして1600年、秀秋軍による関ヶ原合戦を決める東軍への寝返り。実際は合戦前に秀秋の東軍参加の合意はあったとの記録が残っており(「関原軍記大成」による)、ぎりぎりの裏切りではありませんでした。ただ、18歳の秀秋に東軍の家康に対する恩義と西軍の豊臣の血を引く自身としての葛藤はあったでしょう。

 

 

 

結局秀秋軍は秀吉の家臣・越前敦賀城主の大谷吉継を自刃に追い込み、小早川氏の東軍への参加が他の西軍武将たちの連鎖的な離反を招き、東軍を勝利へと導きました。

 

 

戦いの後、秀秋は55万石の大大名へと大出世。のち、大谷吉継や石田三成の亡霊に悩まされて狂死したというのは、実際はアルコールによる内臓疾患による死亡です。跡継ぎの無い小早川家は改易、残された多くの家臣は、関ヶ原の裏切りから仕官先が見つからず、「小早川浪人」と呼ばれ最後まで死んだ主君に苦しめられたそうです。

 

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

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