一筋縄ではいかない武将たち ⑨ | あかねいろ01

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一筋縄ではいかない武将たち ⑨

2017/09/22
 
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豪商あがりの国際派商人大名 小西行長(1558年―1600年)

 

 

 

肥後宇土城主小西行長はアウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名。

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堺の豪商・小西隆佐の次男で、金融業を営む商人の養子として岡山に住んでいました。若い頃から宇喜多家に出入りし、宇喜多直家の元で働く行長は豊臣秀吉に才能を認められ臣下に加わります。のち舟奉行に任命されると水軍を率いる大将となりました。

 

 

 

才気と野心に富んだ商人が軍人への珍しい転身を遂げたのです。

 

 

豊臣秀吉は、信長を失った後も山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦など戦を重ねてその勢力範囲を広げますが、戦いは陸戦ばかり。海軍型の行長の出番はありません。代わりに後方の物資輸送を指揮する行長は陸軍型の加藤清正を中心とした武闘派に蔑まれます。

 

 

 

しかし1587年九州平定、1588年肥後国人一揆の討伐で武功があった行長は、後の朝鮮出兵を視野に入れた秀吉から肥後国の南半分を与えられ、肥後宇土城主となります。朝鮮通で朝鮮語に長けた行長やその父親は重用されたのです。

 

 

 

1592年、天下統一を果たした秀吉がついに朝鮮出兵。文禄の役です。同じ肥後の北国と南国の隣接する領地を巡って争うことが多かった行長と加藤清正とのライバル意識が顕在化し始めます。

 

 

朝鮮出兵の無謀さを知る文治派行長は、早くから朝鮮・明との講和交渉に尽力。武闘派の清正はその交渉を妨害し、秀吉の怒りを買って謹慎処分となりました。慶長の役でも二人は反目しながら戦は続き、結局秀吉の死により戦いは終結しました。

 

 

 

その後の行長は徳川家康に従いながらも、関ヶ原の戦いでは西軍に与しました。それは、朝鮮出兵で強めた石田三成との絆や以前仕えた宇喜多家への義理、そして東軍についた加藤清正との対立が原因だと考えられます。しかし西軍は敗北。キリシタンである行長には自害は出来ず、捕縛されて京都の六条河原にて斬首ののち、三条河原で晒し首となってしまいました。

 

 

 

1607年、忠義を重んじ、信仰に篤い日本の武将小西行長の話がイタリアのジェノバで音楽劇になりました。ヨーロッパで彼の名は広く知られ、死して国際的な大名となった行長でした。

 

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

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