一筋縄ではいかない武将たち ⑩ | あかねいろ01

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一筋縄ではいかない武将たち ⑩

2017/09/22
 
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死後に勝った男 浅井長政(1545年―1573年)

 

 

 

戦国武将たちが命を的に戦い続ける理由――。領地を広げること、下克上を遂げてその出世欲を満たすこと、主君への義理などに加えて自分の家系や血脈を絶やさないこともその一つ。そういう意味ではこの浅井長政こそ戦国の世の勝者だったのかもしれません。

 

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1560年わずか15歳の賢政(かたまさ、のちの長政)が六角氏との戦いで勝利し、浅井家の家督を相続、さらに領土を拡大したその活躍を認めた織田信長の提案により両者の間で同盟が結ばれました。信長は喜び、その証しとして賢政は1567年に信長の妹の市を妻として迎え、信長から一字を拝領して賢政から長政へと改名したと言われています。

 

 

その後、信長は足利義昭を奉じて上洛を開始。浅井氏もそれに協力していたわけですが、1570年、信長の上洛要請を拒否していた朝倉氏が織田信長・徳川家康の連合軍に攻撃を受けると、浅井軍が織田徳川連合軍を背後から急襲。信長は命からがら逃げたのでした。長政が織田を裏切ったのは、六角氏との戦いの武功に対する信長からの恩賞が殆どなかったことが原因だとも、織田氏が朝倉氏を攻めるにあたって、朝倉氏の同盟相手の浅井氏に対し「事前通告」の約束を破ったためだとも言われています。

 

 

 

やがて浅井氏は信長の傀儡(かいらい)であることに不満を持った将軍足利義昭による反信長連合軍として三好三人衆、本願寺、朝倉氏、武田氏とともに打倒信長をめざしますが、信長の比叡山焼き討ちによる延暦寺壊滅、朝倉軍の撤退や武田信玄の急死が重なって信長包囲網は破綻しました。

 

 

 

1573年、浅井氏本拠地である小谷城が織田軍に囲まれた時、政長は最期を悟って妻のお市を信長の元へと返し、父久政に続いて自害をしました。享年29歳。信長は容赦なく長政の息子である万福丸までも処刑し、浅井家は滅亡してしまいました。

 

 

しかし、長政には娘たちがいました。長女の茶々は豊臣秀吉の側室として秀頼を生んだ淀殿に、次女初は京極高次の妻に、そして三女の江(ごう)は、江戸幕府2代将軍となる徳川秀忠に嫁ぎ、3代将軍家光の母となったのです。こうして長政の娘たちが戦国の男たちとは違う生き方で時代にその存在を刻みつけ、浅井家の血脈を高い影響力のある家系に残したことは、長政にとって最後の大切な一勝でした。

 

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

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