一筋縄ではいかない武将たち ⑪

元かぶき者不良少年は大大名へ 前田利家(1539年?―1599年)
往来を行く奇妙な格好の「うつけ者」と長く派手な槍を持った長身の「かぶき者」。これはもう現代でいう不良少年のようなもの。しかし、この二人の名が織田信長と犬千代こと前田利家と知ればただの不良でないことはおわかりでしょう。
気の強さで運も不運も呼び込む男
尾張生まれの犬千代は13、4歳で織田信長の小姓として仕え、元服前にすでに戦で敵の首を取るほどの強者。元服後、前田又左衛門利家と名乗ります。身長6尺(182cm)の彼は、三間半(6m30cm)の長く派手な槍を操り「槍の又左」とあだ名されました。1556年の戦で右目の下を射られ、顔に矢が刺さったまま射手を討ち取るほど気の強い男。
1558年には信長の精鋭部隊赤母衣衆(あかほろしゅう)に選抜され順風満帆。同年、従妹であるまつと結婚しました。
しかし、1559年に素行の悪い茶坊主の拾阿弥(じゅうあみ)を信長の面前で斬殺し出仕停止に。桶狭間の戦い、森部の戦いに無断で参戦して信長のために手柄を立て、2年後にようやく帰参を許されました。
32歳で前田家の当主となり、1570年の姉川の戦い、石山本願寺との戦いで「日本無双の槍」と讃えられる奮戦。続く長島一向一揆、長篠の戦いでも期待を裏切らない活躍が高く評価されました。
豊臣家の支柱となって
ところが、信長が本能寺の変にて急死。後継者のことで対立した豊臣秀吉と柴田勝家が1583年に賤ヶ岳の戦いを起こします。双方に情と恩のある利家は苦渋の決断の末、柴田軍として参戦していた自らの5000の軍勢を突然退却。この利家の消極的な秀吉への貢献が勝敗を決し、柴田軍は崩壊して豊臣軍勝利となりました。
その後も北ノ庄城攻めなどの活躍で加賀の金沢に領国を与えられ、前田家は90万石の大大名に。ここに「加賀百万石」の礎が築かれました。北条討伐の後には関東・東北へとその影響力を伸ばします。
秀吉の子秀頼の誕生後利家は五大老の一人となり、秀吉の死後は実質上の大坂城の主になりました。秀吉に禁じられたルール違反の派閥形成をする家康を押さえ込むなど豊臣家のために尽力しますが、直後に病に倒れます。そして1599年62歳にて死去。
最後まで豊臣家に尽力した前田利家亡きあとは、家康が本領発揮してくるのでした。
明石 白(あかし はく)
ライター
愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。