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一筋縄ではいかない武将たち ⑫

2018/10/01
 
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忠誠と表裏一体の野心を持つ軍師 黒田官兵衛(1546年―1604年)

 

 

黒田官兵衛は軍師として戦国の三英傑(信長・秀吉・家康)に仕えながら実は天下取りも目論んでいた智将。実は「官兵衛」は通称で、本名は孝高(よしたか)。如水(じょすい)は隠居後の号です。ここでは通り名である官兵衛で統一します。

 

織田家への忠誠

 

小寺政職(まさもと)に仕える黒田官兵衛が、1569年姫路城へ押し寄せた播州赤松政秀の軍勢3000を300の兵で撃退したのが戦国武将としてのデビューです。

 

 

官兵衛の進言で織田側についた小寺氏のもと、彼は1577年に毛利側の浦宗勝を英賀(あが)の奇襲作戦で撃退。のち信長のもと秀吉の与力として中国征伐、佐用城・上月城の攻略などで手腕を発揮しました。

 

 

 

1578年荒木村重が反旗を翻した際、説得に乗り込んだ有岡城で1年間幽閉される憂き目にも遭いましたが、その後も兵糧攻めで鳥取城を、水攻めで備中高松城を攻略、小田原城の無血開城など知略を駆使して織田家に尽くしました。

 

 

豊臣家と陰の野心

 

何と言っても官兵衛の判断力のキレを示すのは秀吉に成功させた奇跡の「中国大返し」です。備中高松城の攻撃の最中、信長の急死に驚く秀吉に「今こそ天下を取るべき」と進言。そのため秀吉は素早く毛利輝元との講和結び、京へ戻って明智光秀を討つことができたのです。しかし秀吉は鋭い官兵衛を却って警戒します。それを悟った官兵衛は、1589年に息子の長政に家督を譲り、秀吉側近としての活動に専念しますが、実は秀吉の勘は図星でした。

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徳川家に隠して企んだ天下取り

 

関ヶ原で家康側についた官兵衛は石垣原(いしがきばる)の合戦で大友吉統(よしむね)の軍を撃破。官兵衛の狙いはまず混乱に乗じて九州を席巻し、その後中央で天下を手中に収めることだったのです。

 

 

 

しかし、決戦がわずか1日で終了したためそれは叶いません。皮肉にも関ヶ原の早期決着は嫡男長政の策謀成功のおかげ。長政は筑前国(福岡)での37万石へ加増転封されましたが、官兵衛は恩賞や領地加増を辞退して隠居生活を送りました。

 

 

「世に恐ろしきものは徳川と黒田なり。されど徳川は温和の人なり。黒田は何ともこころゆるしがたきものなり」とあの天下人の秀吉が家康以上に畏れた黒田官兵衛。

 

 

 

1604年、クリスチャンだった官兵衛はロザリオを胸の上において京都にて亡くなりました。享年59。

 

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

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