一筋縄ではいかない武将たち ⑮ | あかねいろ01

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一筋縄ではいかない武将たち ⑮

2017/09/24
 
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裏切り者か、悲劇の武将か? 片桐且元(1556年―1615年)

 

 

豊臣家滅亡のきっかけとなった方広寺鐘銘事件。その梵鐘には「片桐東市正豊臣且元」と秀吉から賜った豊臣姓の入った片桐且元の名前も刻まれています。そんな且元は大坂の陣では東軍につきました。豊臣姓を賜るほど秀吉から信頼されていた彼はなぜ豊臣家の敵になったのでしょうか。

 

 

 

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秀吉の信頼、家康との親交

 

近江に生まれた片桐且元は父親と共に浅井氏に仕え、浅井氏が滅亡の後は北近江を支配することになった羽柴秀吉に仕えました。1583年の賤ヶ岳の戦いでは賤ヶ岳七本槍の一人として挙げられるほどその武功を讃えられ、小牧・長久手の戦いにも参戦。1595年には摂津茨木1万石の城主となり、秀吉からの信頼も厚い且元は、秀頼の誕生の後には傳役(もりやく)となりました。

 

 

秀吉の死後、1599年の秀頼の大坂城入りの折、大坂に宿舎のなかった徳川家康を屋敷に宿泊させたことが且元と家康の親交の始まりです。

 

 

関ヶ原の戦いでは、且元は西軍につき、敗戦の後は豊臣と徳川両家の調整役に務めます。実質的に豊臣家を取り仕切っていた且元は、幼い秀頼の代理として豊臣家の経営に携わりながら家康にも仕えました。

 

 

誠意の誤解に苦しむ且元

 

摂関家としての格のある豊臣家に手を出しづらい家康。そこに起きたのが1614年の方広寺問題。南禅寺の僧侶が作った梵鐘の銘文「国家安康」が不敬であり徳川氏を呪詛するものだという徳川方からの言いがかりでした。普請の責任者は片桐且元。

 

 

 

且元は誤解を解くべく奔走しますが、家康の突きつける厳しい条件に淀殿や側近は激怒。しかも豊臣側は且元の家康への内通を疑いました。努力の甲斐無く裏切り者扱いの上に、暗殺計画まであると知った且元は大坂城を出て行きます。それを不忠だとして秀頼が且元を改易。更にそれを交渉の使者の追放と理解した家康が、大坂の陣の宣戦布告を行ったのでした。

 

 

身は徳川に、心は・・・

そんな事情で且元は家康の東軍に加わりました。大坂城の落城後、且元の元へ大坂方から秀頼と淀殿の助命嘆願がありました。且元はそれを徳川秀忠に伝えますが却下され、豊臣家は滅亡となったのです。夏の陣のすぐ後、且元は前年から患っていた肺病のために京の屋敷にて死亡。病死と言われていますが、豊臣家の滅亡を嘆いて殉死したという説もあるそうです。

 

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

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