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一筋縄ではいかない武将たち ⑯

2018/10/01
 
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関ケ原 大谷吉継陣跡

 

輿に乗って決戦に臨んだ病身の猛将 大谷吉継(おおたによしつぐ)(1565-1600)

 

 

ゲームキャラとしては、いつも白頭巾を被って描かれる大谷吉継(よしつぐ)。大谷刑部(ぎょうぶ)とも呼ばれ、もう白頭巾なしでは誰なのか判別できないくらいその姿が定着していますね。この人物は出自をはじめ謎とされていることの多い武将で、伝説や残された多くの逸話がかえって実際の人物像を掴めなくしているようです。

 

戦いと執政に秀でた男

 

吉継の出自については、明確なことはわかっていません。有力説によると、父親が大谷良房、母親は豊臣秀吉の正室・ねねの侍女であった東殿(ひかし)だと言われています。

 

経緯は不明ながら、福島正則、加藤清正、仙石秀久、脇坂安治などの同僚と共に切磋琢磨しながら、羽柴秀吉の馬廻衆という親衛隊で働きました。

 

1583年、織田家の重臣・柴田勝家と秀吉との間におきた賤ヶ岳の戦いで、吉継は勝家の養子の近江長浜城主・柴田勝豊を寝返らせることに成功し、実戦でも「三振の太刀」と賞賛される手柄を立てます。 

 

また、彼は経理や内政にも優れ、秀吉に重用されます。

 

1589年には越前敦賀に2万石の領地を与えられ、それ以降は、商業港としての機能を整え、地場産業の育成にも取り組むなど領地経営のうまさと家臣を大事にする執政の腕の良さが認められ、翌年には5万石を領有することになりました。

 

 

病との闘い、関ヶ原の戦い

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ところが、1594年頃から発病。中枢機関からは離れ、療養生活をせざると得なくなります。それでも秀吉は吉継の見舞い訪れ、寵愛が薄れることはありませんでした。

 

重度のハンセン病もしくは梅毒に侵されて崩れた顔面を隠すために白頭巾を被ったとされていまが、そのような史料は存在していません。

 

しかし、後年目が不自由になり、関ヶ原の戦いの頃には足腰が弱り、輿(こし)に乗って軍を指揮したという記録が残っています。

 

逸話としては、1587年の大坂城の茶会で、豊臣方の武将たちが回しのみする茶を、大谷吉継が口をつけたあとは皆が病気の感染を恐れて飲む振りだけをする中、石田三成だけが普段と変わらず飲み干した、というのが有名です。

 

それに感激した吉継と三成との間に友情が育まれました。

 

その友情のために、吉継は関ヶ原の戦いで勝ち目のないことを知りながら石田三成の西軍についたと言われます。

 

吉継はそれでも西軍の勝機を求め、毛利輝元を西軍の総大将として迎え、宇喜多秀家も西軍に加わります。調略を駆使して前田利長の軍を退けることにも成功。

 

大谷隊はめざましい活躍をしましたが、最後は小早川秀秋が東軍に傾き、その結果西軍武将たちの連鎖的離反で包囲され、壊滅状態となりました。

 

目の見えなかった吉継は家臣の「御合戦御負け」の言葉を聞いて無念の自刃をしたということです。

 

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

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