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一筋縄ではいかない武将たち ⑰

2018/10/01
 
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直江兼続像
 

天下分け目の戦いをあおった手紙 直江兼続(1560年-1620年)

 

 

「天下の執政を行えるのは直江兼次など数えるほどしかいない」と豊臣秀吉が自分の家臣に欲しがった直江兼続(なおえかねつぐ)。気性がちょっと激しく、頭が良く、そして忠義に厚い人物でした。兜に「愛」の一文字を掲げたことで知られてますね。背が高く、美男子だったと言われています。直江家の婿養子に入った時から直江姓を名乗りました。

 

 

軍才と優れた執政と教養と

 

直江兼続(なおえかねつぐ)は戦うセンスがあり、上杉謙信の没後間もない1578年、「御館(おたて)の乱」という景勝と養子の景虎(かげとら)の間の後継争いの時、すぐさま春日山城の本丸にある莫大な軍資金が置かれている金蔵を押さえます。その兼続の機転が決めてになって景勝方は景虎方が呼び込んだ武田勢もはねのけ勝利しました。

 

小姓の頃より共に育った主の上杉景勝とは酒を酌み交わすほど親密。兼続は側近として活躍し、上杉家では景勝と兼続の二頭政治が行われていました。

 

織田信長の死後実権を握った羽柴秀吉は、柴田勝家を滅ぼす際に上杉との協力体制を結び、後に臣従の関係となります。

 

1598年には豊臣秀吉の命で上杉景勝が越後から会津120万石に加増移封となり、兼続も米沢6万石を与えられ大名格に。会津では兼続が城や道路整備を指揮します。

 

彼は上洛する機会があるたび禅僧との交流を深め、中国の史書や古典などを収集し、朝鮮出兵の際も書物を持ち帰るなど教養人でもありました。

 

 

直江状が全ての口火に

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しかし秀吉が死ぬと徳川家康が台頭してきます。豊臣秀吉との義を重んじる上杉家は家康と対立。会津領国内の城や道路の普請を怪しむ家康からの再三の上洛要求を無視します。

 

そこで家康は上杉景勝に弾劾状を送って糾弾。それに対して直江兼続が書いた一通の手紙こそ「直江状」です。兼続が真っ向から反論する内容はまるで過激な挑戦状。

 

家康は激怒し会津攻めに向かいますが、石田三成挙兵の知らせで急遽江戸方面へと引き返したのです。上杉家は家康を追撃せず、兼続を総大将に最上義光(もがみよしあき)の軍と戦闘を繰り広げました。

 

しかし、その最中に関ヶ原での家康勝利の知らせに兼続軍はなんとか会津へ退却しました。

 

 

関ヶ原のあと

 

西軍だった上杉家は米沢30万石に減移封となりますが、兼続は家臣を解雇せず、堅実な城下町造りや米沢藩士の学問所として禅林寺を開くなど、手堅く地盤の強化を図りました。しかし、1619年直江兼続は江戸にて60才で病死します。

 

直江の家はその後断絶。理由は減移封を招いた責任を取ったとも、上杉家の財政を助けるためにわざと跡継ぎを設けなかったとも言われています。

 

さて、気になる兼続の兜の「愛」のひと文字ですが、これはLoveではなくて、軍神として信仰された愛染明王か愛宕権現を表わしているのだろうということです。お間違えなく。

 

 

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

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