一筋縄ではいかない武将たち㉑ 今川氏真について | あかねいろ01

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一筋縄ではいかない武将たち㉑ 今川氏真について

 
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画像 掛川城

 

場違いな戦国時代の文化人大名 今川氏真(1538-1615年)

 

 

今川氏真(いまがわうじざね)のことを戦国大名の中でも愚将だという人は多いでしょうが、本人は一体自分をどう評価していたことでしょう。実際、彼は名将ではありませんでしたが、一流の文化人でした。

 

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氏真と今川家滅亡

 

有名な戦国大名今川義元は、駿河、遠江、三河を支配する「海道一の弓取り」と言われる大大名でした。ところが、義元は1560年の桶狭間の戦いにおいて織田信長に討たれます。若い氏真は今川家の当主を継ぎますが、家中にいた多くの頼りになった武将たちは討ち死にし、当時徳川家康をはじめとする家臣たちにも見放され、同盟を結んでいた武田信玄にも裏切られます。1568年に武田信玄が駿河へ攻めてくると氏真は駿府城を失い、重臣の朝比奈泰朝(あさひなやすとも)の居城・掛川城へと逃亡。しかし、そこへ徳川家康が侵攻し、掛川城も落城。和睦こそ成立しましたが、今川家は領土の所有権を失い、滅亡となりました。それまで何かと貢献をしてくれていた妻の実家である北条氏も、舅である北条氏康が亡くなり、義兄弟の氏政が当主となると北条氏と武田氏の同盟を結びます。そこで氏真はかつての家臣・徳川家康を頼りました。

 

 

 

家康の下で趣味に没頭の氏真

 

主従関係が逆転した氏真と家康。氏真は家康の下では趣味の和歌や蹴鞠に没頭します。実は、氏真は文化人としては一流でした。和歌は後水尾天皇選の『集外三十六歌仙』に名を連ねるほど。そして蹴鞠のうまさはかなりのもので、その評判を聞いた織田信長に請われ、その面前で腕前を披露しました。親を殺した仇の前で氏真がどんな気持ちで蹴鞠をしていたのか、それは当人しかわかりません。

 

 

 

その後、氏真は長篠の戦いに家康軍として参戦することもありましたが、基本的に政治からは遠のき、和歌や蹴鞠をし、公家の接待役をしながら京都に住みました。詳細は不明ながら、家康は大人の対応で氏真を無下にすることはなく、二人の交流は長く続きました。

 

 

 

まるで無能の軟弱大名のように言われる氏真ですが、実際はそうでもありません。剣術は塚原卜伝(つかはらぼくでん)に新当流を学び、免許皆伝の腕前。蹴鞠というのはかなりの身体能力が必要で、遊びというよりは武家としてのたしなみとして皆が学んだものでした。また、氏真は信長に先駆けて“楽市”を作る先見の明がありました。

 

 

 

城をなくし、領国をなくしたあとも彼を慕う家臣は多く、主を失った家臣たちの再就職のために氏真が奔走したことも記録に残っています。そんな人柄の良さが、家康にも理解されていたのかもしれません。今川家滅亡は氏真全ての責任ではなく、実は彼が家督を継ぐ前からその兆しはありました。多くの重臣を失った戦の後に若い氏真が家を立て直すことは難しかったのです。

 

 

 

意外な活躍

 

その後、今川家は江戸幕府の儀式や典礼を司る高家として明治維新まで存続しました。今川氏真は武功こそありませんでしたが、その文化人としての資質が重用され、子孫に長く受け継がれたのです。

 

 

生涯を77歳で閉じた氏真。多くの優れた武将たちが短い生涯を終える中、戦乱の世に場違いな文化人として生まれた戦国大名の氏真の長寿は、その後の幕府と今川家との関係を象徴するかのようだとは思いませんか。

 

 

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

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