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一筋縄ではいかない武将たち㉒ 仙石秀久について

2018/10/01
 
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画像 懐古園

 

堕ちてまた這い上がった復活大名 仙石秀久(1552-1614年)

 

最近は仙石秀久を主人公とした漫画の登場で、知名度も上がってきた武将です。伏見城で有名な大泥棒・石川五右衛門を捕縛したというエピソードを持つ彼の人生はまさにジェットコースターのようでした。

上りの人生

 

美濃国の土豪(特定の地域の小豪族)出身の秀久は、1567年に主君の斎藤龍興が織田信長との稲葉山城の戦いに敗れたときに信長に14歳でありながらたくましい風貌を気に入られ、信長配下の羽柴秀吉に仕えます。秀吉最古参の家臣として1570年の姉川の戦い、1577年の中国攻め、1582年の本能寺の変で信長が死去した時にも明智光秀側であった豪族たちを討伐し、貢献しました。さらに1585年の四国攻めでも奮戦し、讃岐一国を与えられました。

 

下りの人生

そして秀久は1586年の九州征伐で大失敗を犯します。秀吉は四国攻めで活躍した仙石秀久を軍監役として抜擢。秀久は讃岐虎丸城主の十河存保や土佐岡豊城主の長宗我部元親らの軍勢と一緒に九州に渡りますが、この部隊編成が上手くいくわけはありませんでした。前年まで四国征伐で戦っていた敵同士の混成軍では結束は無理。それを承知していた秀吉は「本隊到着まで合戦せず、待機せよ」との指示をだします。が、秀久は焦りと功名心でそれに背いて独断で攻めに行き、島津義弘と家久の兄弟軍に反撃され、壊滅的な打撃で敗北。命令無視の上、敗走する際の軍監役としての責務も果たさず逃げ帰ったわけですから、秀吉の激怒は想像に難くありません。仙石秀久は即刻改易、身分を剥奪されて高野山へ追放されました。こうして、今まで20年かけて手に入れた一国一城の主のキャリアを失った秀久でした。

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 再び、上昇

 

しかし、それで潰れるような秀久ではありませんでした。高野山で謹慎生活をしていた彼は再起を狙います。そして、秀吉が小田原の北条征伐をする話しを聞くや、徳川家康に陣借(浪人などが再起・再仕官をかけて臨時で従軍させてもらうこと)を願い出て、もう一度秀吉の武将として返り咲くチャンスを狙ったのです。白地に日の丸を付けた陣羽織を着て、その陣羽織には敵兵を引きつける鈴を一面に縫い付け、紺地に白抜きの「無」と書かれた旗印を掲げるというど派手なコスチュームで勇猛果敢に戦場を駆け回りました。そして、狙い通り、それを見た秀吉に認められ、信濃国小諸(こもろ)に5万石を与えられて大名として豊臣家臣にカムバックしたのでした。

 

秀吉の死後は、復帰の際に世話になった家康に接近し、関ヶ原の戦いでも東軍として活躍。

 

 

その後の秀久は、小諸藩主として熱心に領地の整備開拓に取り組みました。徳川幕府からの信頼は厚く、秀忠付という名誉職にもついており、その後は1614に享年63にて亡くなるまで一介の外様大名としては過分なまでの待遇を受けました。

 

大失敗と大成功。そのどちらにも秀久の性格が表れているようで、どうも憎めない武将です。

 

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

 

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