一筋縄ではいかない武将たち㉔ 太田道灌について  | あかねいろ01

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一筋縄ではいかない武将たち㉔ 太田道灌について 

2017/12/21
 
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一筋縄ではいかない武将たち㉔

画像 太田道灌像

 

戦国時代の幕開けを戦い抜いた男 太田道灌(1432-1486年)

 

道灌(どうかん)は出家したのちの法名であって、本来の名前は太田資長(おおたすけなが)といいます。ここでは通りのよい太田道灌で統一します。あの江戸城を築城したという太田道灌とはどのような生涯を送ったのでしょうか。

 

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戦に勝つ方法を知っていた男

道灌は、関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の家宰(かさい/家長に代わって家政をとりしきる職責のこと。筆頭重臣)を務めた太田資清(すけきよ)の子として1432年に誕生。家柄も良く、道灌は文武に優れた人物に成長します。

 

道灌が家督を譲られた1456年の頃、関東では足利成氏と上杉家の戦いである享徳の乱(きょうとくのらん)が起きていました。同じ上杉でも、山内上杉家の力は強大で、太田家の主である扇谷上杉家とは比べものになりません。しかしその乱で道灌は活躍し、扇谷家を盛り立てます。道灌は特殊な戦法を用いたのです。彼は戦場荒し程度でしか活躍しなかった足軽に槍や棒を持たせて部隊を結成。敵方の武将を取り囲んで打ち倒す戦法を編み出したのです。この方法は一騎打ちしか知らなかった戦場の武士たちを畏れさせたと言います。この足軽部隊の活躍もあって道灌の軍は連戦連勝。さらに、足利成氏側と戦うために防御の拠点として、武蔵国入間郡に河越城を、また武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城し、築城の名手とも呼ばれた道灌。主家のために攻守に尽力しました。28年にも及ぶ長い享徳の乱を戦い抜いた道灌によって扇谷家は山内家に肩を並べるほどの勢力を持つに至ったのです。

 

画像 江戸城

 

戦マラソンを走り抜いた道灌のゴールは謀殺

享徳の乱がまだ終わらない1476年、今度は山内上杉家内部の争いに足利成氏が加わって長尾景春(ながおかげはる)が謀反をおこします。そこで、上杉氏が内部崩壊しかねない状況を阻止しようと、道灌は謀反の張本人である景春に和睦交渉をしながら巧みな策で景春チームの拠点を次々と潰していきました。抵抗を諦めなかった景春も、1480年に最後の拠点である日野城を道灌に攻め落とされると、最後は足利成氏のもとへ落ち延び、成氏と両上杉家の間の和議をもって乱は終息。道灌は驚くべき30数回にもわたる合戦を戦い抜き、殆ど独力で上杉家の危機を救った英雄でした。

 

ところが、道灌のその活躍で却って主の扇谷上杉定正が警戒します。彼の活躍に嫉妬したと思われる上杉顕定(あきさだ)に「道灌が謀反を画策している」と吹き込まれたのです。1486年、定正は道灌を自分の城に招きます。そして道灌が入浴後に風呂場から出たところを斬ったのです。これが上杉家を救った最大の功労者、太田道灌の最期となりました。

「当方滅亡!」と無念の道灌が最後に叫んだとおり、その謀殺は上杉家の自殺行為ともいえるものでした。その予言はのちに北条早雲の登場によって現実のものとなってしまったのでした。そして戦国時代が始まります。

 

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

 

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