一筋縄ではいかない武将たち㉖ 脇坂安治について | あかねいろ01

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一筋縄ではいかない武将たち㉖ 脇坂安治について

2017/12/31
 
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主君を選ぶ目を持つ男 脇坂安治(1554年-1626年)

1583年に織田勢力を二分する羽柴秀吉と柴田勝家の間で起きた賤ヶ岳の戦い。そこで武名を高めた「賤ヶ岳七本槍」の一人、脇坂安治(わきざかやすはる)は、将来伸びると思われる上司を見極めるのが上手い武将でした。主君を替えて彼が進んだ出世街道を辿ってみましょう。

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3石から3万石への出世

1554年、安治は近江の土豪・脇坂安明の嫡子として誕生しました。最初に仕えた浅井氏の滅亡以後は、織田家に仕え、明智光秀の与力(大名に附属する武将)として功をたてた後、自ら木下藤吉郎の家臣となります。その時の俸禄はなんとわずか3石。
しかし、その後木下藤吉郎は明智光秀を倒して天下人豊臣秀吉となるわけですから、その時弱冠16歳の脇坂安治の上司を選ぶ目は正しかったのです。

 

三木城攻め、神吉城攻めなど秀吉の元で順調に武功を重ねた安治。
賤ヶ岳七本槍と称された柴田家との戦いでは、柴田勝政(かつまさ)を討ち取り、恩賞として3000石を拝領して3石から一挙に千倍の石高になりました。
また小牧・長久手の戦いでは滝川雄利(たきがわかつとし)の伊賀上野城を攻略するなどの手柄で、1585年5月に1万石、8月に2万石、10月には3万石と次々に石高が増えました。実に3石のころから1万倍の出世。
その後は水軍を率いて九州征伐、小田原征伐そして朝鮮出兵などにも従軍。小田原征伐では海から伊豆国下田城を攻め落とすという活躍でした。

 

朝鮮での活躍と秀吉亡き後の寝返り

脇坂安治の活躍は、秀吉の朝鮮出兵の際にも健在でした。ただ、閉山島海戦では功を焦って抜け駆けした上、大敗。しかし、慶長の役の巨済島(きょさいとう)の海戦で朝鮮水軍を壊滅させ、この武功でさらに3000石をプラスされた安治の所領は3万3000石に。

秀吉の死後、徳川家康と前田利家が対立しましたが、脇坂安治の将来性を見抜くセンスは家康を選びます。幼い2代目秀頼とその守役・前田利家よりも、百戦錬磨の徳川家康の剥き出しの野心に自分の将来性を嗅ぎ取ったのでしょう。
その後、家康との関係を水面下で続けながら、時には意に反して石田三成の西軍側に付く場合もありましたが、関ヶ原の本戦では東軍に寝返ります。これは東軍からの内部工作を受けての予定の行動であったので、戦い後には伊予大洲に移封され5万3000石に加増となりました。なかなかしたたかな出世の仕方です。

豊臣家への最後の義理立て

しかし、安治は3石のときから引き立てて貰った豊臣家への恩義を全く忘れてしまったわけではありませんでした。
すでに関ヶ原で徳川方についていた脇坂家でしたが、大坂の陣では、中立を保って徳川にも豊臣にも付かなかったのです。翌年1615年に安治は隠居し、剃髪しています。最後の最後に脇坂安治は豊臣家に弓を向けることだけは避けたかったのでしょうか。

 

おわりに

出世欲を優先したドライな男・脇坂安治。しかし、戦国時代はこうしなければ生き抜くのは難しかったのです。そして、その時々の決断も決して簡単ではなかったはず。それをことごとく成功させた安治はさすがでした。彼の生き方は、現代において、優秀な人材がより待遇のよい企業を求めて転職するのに近い感覚だったのかもしれません。
しかし、この男が最後に示した大坂の陣での中立は、一種の良心の表れのようにも見えます。
この後、脇坂家は明治時代に至るまで準譜代大名として続きました。

 

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

 

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