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一筋縄ではいかない武将たち㉘ 太原雪斎について

2018/10/01
 
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今川義元を教育した黒衣の宰相 太原雪斎(1496年―1555年)

 

太原雪斎(たいげんせっさい)は本名を崇孚(そうふ)と言います。本来は臨済宗の僧侶でした。雪斎は号ですが、ここでは雪斎の名で統一し、あの今川義元の教育係、のちに参謀となった彼の生涯をたどってみます。

 

今川義元との出会い

雪斎は今川家の家臣・庵原左衛門尉(いはらさえもんのじょう)の子で、1509年に14歳で剃髪し、禅僧として富士山麓の善徳寺で修行していました。何もなければ高僧として生涯を終えていたかもしれない雪斎。ここで彼は出家してきた今川家の当主・氏親(うじちか)の五男、8歳の少年・梅岳承芳(ばいがくしょうほう)のちの今川義元と運命的な出会いを果たします。彼は承芳の養育係として英才教育を施します。

 

花倉の乱

1536年今川氏親の家督を継いでいた氏輝が24歳という若さで急死し、その弟彦五郎も同日に死亡してしまいます。今川家の跡目は残る二人の弟である駿河で僧をしていた玄広恵探(げんこうえたん)と承芳のどちらかが継ぐことになりました。恵探は承芳より年上でしたが福島氏の側室の子、承芳は氏輝と同じく正室の子です。ここに家督争いが勃発。これを花倉の乱と言います。この時、雪斎は承芳の家督相続に尽力し、多数派工作を行って恵探側を追い詰めます。最終的には武力衝突となり、恵探は花倉城に総攻撃を受け、城を逃れて自刃しました。この乱に勝った承芳は還俗して義元を名乗り、今川家の家督を継いだのです。この争いを早期に決着させた雪斎の辣腕は高く評価され、彼は政治・外交・軍事とあらゆる分野での最高顧問となりました。

 

外交の天才

花倉の乱で発揮した軍略の才能だけではなく、雪斎は外交面での活躍が高く評価されています。雪斎の活躍なしに今川家のその後の繁栄はありませんでした。義元が家督を継いだ当時の今川家は甲斐・武田信虎(のぶとら)との関係が非常に悪かったのですが、その関係改善のために信虎の長女を義元の正室に迎え、信虎の子・武田晴信(のちの信玄)には今川家の遠縁である三条公頼(きんより)の娘を輿入れさせて両家に婚姻関係を結び、今川・武田同盟を成立させたのです。

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さらに対立関係にある相模の北条氏とも講和を結び、今川・武田・北条の三国同盟をさせたのも雪斎でした。また、1549年には太原雪斎自らが軍勢を指揮し、三河安祥城主・織田信宏を攻めて捕虜にすると、織田家に奪われていた松平家と今川家の間で了解済みであった松平家の竹千代(のちの徳川家康)との人質交換を実現させて今川家に取り戻したことも。その後も雪斎は今川、武田、北条との同盟を婚姻関係などでメンテナンスし続け、1553年には今川家の分国法である今川仮名目録33箇条の追加21箇条の制定にも関与する活躍ぶり。

「海道一の弓取り」と称された今川義元は、駿河・遠江・三河の3カ国69万石を治めるまでになりましたが、これも太原雪斎の尽力が大きく影響していました。

 

雪斎の死

1555年、太原雪斎は駿河の長慶寺にて病死しました。享年60。

その五年後の1560年、2万5千の大軍を率いて尾張に侵攻した今川義元は、桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死しました。歴史に「もし」はありませんが、太原雪斎が生きていれば、桶狭間の悲劇はなかっただろうと言われています。

 

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

 

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