こんな事?あんな事?あなたにとってもしかしたら役に立つ事が見つかるかも?

一筋縄ではいかない武将たち㉙ 嶋左近について

2018/10/01
 
この記事を書いている人 - WRITER -
【スポンサーリンク】

 

 

三成に過ぎたる者 嶋左近(1540年―1600年)

 

「三成にすぎたるものがふたつあり。島の左近と佐和山の城」こんな戯歌(ざれうた)があります。石田三成に嶋左近と佐和山城はもったいない、というわけです。三成の側近として破格の待遇で迎えられた軍師、嶋左近とはどれほど優秀だったのでしょうか?

 

よく分からない左近の前半生

禿げ頭で、いかつい顔の骨太な豪傑だったという嶋左近。しかし、肖像画などは一切残されていません。また、その出自についてもはっきりしたことはわかっていません。大和国の出身で、幼少より中国の書を読み、兵法に通じていたといいます。近年、自筆の手紙が発見され、「島左」ではなく「嶋左」と書かれていたことから、本人は「嶋」と名乗っていたらしいことが判明しました。

 

明確ではありませんが、何らかの形で筒井順慶を支え、功績あって重臣となったと言われています。しかし順慶が病に倒れた後、跡を継いだ順慶の甥・筒井定次(さだつぐ)と意見が合わずに筒井家を出て、蒲生氏郷(がもううじさと)もしくは豊臣秀長に仕えて武名を挙げました。

 

石田三成に破格の条件で請われて

なんといっても石田三成の軍師として知られる嶋左近。浪人生活を送っていた左近のもとを訪れた三成に説得され、高禄で召し抱えられました。当時、石田三成の知行は4万石なのに、その半分である2万石を与えたという逸話もあります。実際左近を召し抱えたときに三成はすでに佐和山城19万石だったとも言われていますが、それでも破格な待遇でした。多くの仕官の話しをことごとく断っていた左近でしたが、三成の熱意に応え、最後まで彼の元で働くことになります。

 

秀吉の死後、豊臣家では勢力を増していった家康を中心とする陣営から疎外されていく石田三成。その立場を心配した嶋左近は、家康暗殺を計画しますが、その都度三成にストップされます。軍略家である左近は、家康の率いる兵力や軍略を高く評価し、まともに家康と戦って勝てないことを見越していたのですが、三成は暗殺という卑怯な手段を許せなかったのです。

【スポンサーリンク】

 

 

左近の忠心と覚悟

1600年、関ヶ原の戦いの前日、会津の上杉景勝の動向や伊達政宗の裏切りへの警戒があって動けないはずだった徳川家康が、予想に反してすばやく美濃国赤坂まで到着。その報に石田三成の西軍の兵たちは動揺します。そこで、左近はすぐさま兵500を率いて岐阜に向かい、関ヶ原の前哨戦として杭瀬川の戦いで東軍に完勝します。これでぐっと高まった西軍の士気。その波に乗って攻めに行きたい左近は、島津義弘(よしひろ)・小西行長らと共に夜襲を提案。しかし、その案は三成にまたダメ出しされます。

このように、嶋左近の名案はことごとく、頭の固い三成に受け入れられませんでした。夜襲を退けられた左近は「明日、東軍が勢いづけば万にひとつも勝ち目がない」と討ち死にの覚悟を決めたのでした。

 

左近の最期

関ヶ原の本戦では、当初石田三成の傍らで指揮にあたっていた左近でしたが、小早川秀秋の東軍への寝返りを知ると、自ら前線にでて奮闘しました。しかし、彼の予言通り西軍は大敗北。嶋左近は黒田長政軍の銃に撃たれて亡くなったと言われています。

 

軍略家であった嶋左近は、戦下手の三成の欠けたところを補う存在でした。そうであれば、もっと三成は左近のアドバイスを聞くべきだったと思うのですが、そこが左近と三成の悲劇でした。

最後には銃弾に倒れた左近ですが、関ヶ原の戦いのあとになっても「鬼左近」と呼ばれ、その奮闘ぶりが語り継がれたということです。

明石 白(あかし はく)

ライター

愛媛生まれ、大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。CM制作会社(大阪)、フリーライター兼イベントプランナー(大阪)、広告代理店(バンコク)、国際見本市出展関連の会社(ロンドン)などの仕事を通じてコピー、イベント台本、イベント企画などの経験あり。得意分野は日本史、文学、不思議系や海外ネタ。趣味は日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること、路上生活者や移民の観察そして空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。

 

【スポンサーリンク】

 

この記事を書いている人 - WRITER -

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

Copyright© あかねいろ01 , 2018 All Rights Reserved.