一筋縄ではいかない武将たち㉚ 武田信玄について | あかねいろ01

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一筋縄ではいかない武将たち㉚ 武田信玄について

2018/01/21
 
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信長に天下一と畏れられた名将 武田信玄(1521年―1573年)

 

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「武田軍団」「風林火山」「甲斐の虎」などのキーワードでは勇猛なイメージの武田信玄。しかし、彼は力だけの武将ではありませんでした。「信玄堤」という言葉は聞いたことがありますか。信玄が領国の河川をコントロールしようと作った堤防のことです。武田信玄は、戦上手で、頭も切れ、領国経営にも手腕を発揮した知勇に秀でた当主でした。

 

 

当主信玄の領国経営と戦の手法

甲斐武田家に生まれた信玄は、1541年に「甲斐の暴れ獅子」と呼ばれた父親の武田信虎(のぶとら)を追放して武田家当主となりました。追放の理由は、嫡男の信玄ではなく、弟の信繁(のぶしげ)を当主にしようとしたため、もしくは信虎本人の粗暴な振る舞いのためと言われています。

 

 

信玄は「合議制」で家臣たちとの会議で国政を運営しました。また、戦の資金を確保するため領地国甲斐の商業を発展させ、金山の開発、また河川を整備して「信玄堤」と呼ばれる堤防を築くなど領内政策に熱心でした。1547年には分国法である甲州法度も定めています。

 

 

石高が高くない甲斐国では信濃・諏訪への勢力拡大に積極的に臨むことで家臣を養います。使える者であれば百姓でも仕官させ、山本勘助のように素性のはっきりしなかった者も実力次第で雇い入れて兵力増強。功績のあった者には次々と所領を加増したため、主君に応え、家臣が一丸となって戦ったことが武田軍団の強さの秘訣でした。また、むやみに戦はせず、間者を使って情報収集し、敵の武将を寝返らせるなど用意周到な準備をしてから戦に臨みました。生涯で70回以上の合戦をし、信玄が負けたのはわずか3回。その3回全ては村上義清が相手ですが、最終的には村上氏側の武将を寝返らせて攻略しました。戦っては強い武田軍団でしたが、信玄自身は情報・調略戦も得意だったのです。

 

 

川中島の合戦

有名な川中島の合戦は1552年から1564年まで12年続いた合計5回の戦いです。この戦は、端的に言えば信玄が領土拡大で侵攻したため、危機に陥った武将たちが上杉謙信に助けを求め、謙信も越後の安泰のために戦ったというもの。しかし、武田と上杉はお互い睨み合いが続くばかりで、まともに戦ったのは4度目の1回だけでした。しかも結局白黒つかないまま戦は終了。しかし、被害は両軍にとって甚大で、信玄の弟武田信繁が討たれ、提案した作戦が失敗して責任を感じた軍師・山本勘助は戦死し、最終的に武田軍の死者は4630名、負傷者7500名。上杉軍の死者は3470名、負傷者は9400名。この数の信憑性はともあれ、大合戦であったことには違いありません。

 

そしてその間、織田信長は着々と天下取りの準備をしていた、というのが歴史の伏線です。

 

川中島の合戦ではクリアな勝利をすることのできなかった武田軍団でしたが、「負けない武田軍団」の評判は高く、織田信長でさえ「武田軍の強さは天下一である」と畏れていたとは記録にも残る話です。

 

 

信玄無念の死

のち武田信玄は浅井長政、朝倉義景、松永久秀らと共に「信長包囲網」を形成。1572年に三方ヶ原の戦いで織田信長と同盟を組んでいた徳川家康を撃退します。さあ、次は信長打倒だという時、信玄の体調が悪化しました。そして1573年、信玄は信濃で病死してしまいました。享年53。さぞかし信玄は悔しかったことでしょう。

 

天下統一を目論む織田信長にとって、最も畏れていた武田信玄が戦う前に死んでしまったことは、信玄には無念、信長にはラッキーでした。

 

 

 

明石 白(あかし はく)

スペイン在住という効率の悪い日本史バカ。ライター。歴史記事とコマーシャル記事とかコピー書いてます。日本史を日常に。

明石 白(@akashihaku) Twitter  https://twitter.com/akashihaku

 

 

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