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【3分で学べる】戦国あれこれ⑨ 黒い肌の家臣 弥助

2018/10/01
 
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黒い肌の家臣 弥助

新しいもの好きの織田信長は、独特のファッションや考え方で周囲の人を驚かせたものでした。そんな彼の一人の家臣は、周囲をかなり驚かせたようです。

 

弥助って誰?

1581年、イタリア人ヴァリニャーノが信長に謁見した際に引き連れていた黒人奴隷でした。生没年不詳で、出身地はポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)。

『信長公記』には、「切支丹国より黒坊主参り候」と記録されており、年齢は26歳~27歳ほどで十人力の剛力、牛のように黒き身体と描写されています。

初めて黒人をみた信長は、肌に墨を塗っているのではないかと、着物を脱がせて身体を洗わせところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったといいます。

彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に強い関心を示し、ヴァリニャーノに譲って貰いました。「弥助」と名付けて正式な士分に取り立て、身近に置くことにしたと記録にあります。「弥助」の名は、彼の元の名前が現地に多い「ヤスフェ」だったためにこれを聞き間違えたという説もあります。

 

信長による厚遇と弥助の忠誠

もちろん、信長はただ好意で奴隷だった彼を救ったわけではありません。弥助の身長が1.82メートルと、当時の日本の成人男性の平均身長160cm弱と比べてかなり高かったこと、黒い肌への好奇心、そして新しい物好きの信長は、遠い国からやってきた彼の全く知らない文化について興味があったからだと思われます。

 

信長は弥助を気に入り、ゆくゆくは城主にしようとさえ考えていたとか。彼は私宅と腰刀を与えられ、時には道具持ちをしていたという記録もあります。下人や年季奉公人ではなく、扶持持ちの士分に取り立てられた弥助は、もちろん織田家に好感を持っていたでしょう。

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その証拠に、1582年、あの本能寺の変の際、信長と同じ本能寺に宿泊していた弥助は、明智光秀の襲撃に遭うと、二条新御所に走って異変を知らせ、信長の後継者の織田信忠を守るため明智軍と戦っています。最終的には投降して捕縛されましたが、襲撃の際に逃げずに信忠を助けようとしたのは、信長父子に好意を持っていなければできないことです。

 

その後の弥助

その後、明智光秀は捕縛した弥助を「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑しませんでした。結局南蛮寺に送られ一命を取り留めた弥助。光秀が助命したのは、黒人に対する蔑視か、弥助を殺すことを忍びないと思った方便かは解釈が分かれています。

 

その後の弥助の消息は史料がなく、不明です。いくつかの史料には黒人が登場するものもありますが、この時代に日本へやってきた黒人は実は大勢いたと考えられ、弥助を特定することは残念ながら不可能です。

 

信長のデスマスク

愛知県瀬戸市にある西山自然歴史博物館には、信長と伝わるデスマスクが展示されています。なかなかよく出来たもので、残された信長の肖像画のイメージとも一致しています。これが弥助という黒人の家臣が持ち出した信長のクビから造られたものとのこと。これも真偽のほどは確かではありませんが。

 

おわりに

言葉も環境も全く違う極東の国へ自分の意志とは関係なく連れて来られた弥助。恐らく故郷に戻ることもなかった彼の生涯は、信長に出会って奴隷から解放されたことで少しは幸せだったでしょうか。

 

 

明石 白(あかし はく)

スペイン在住という効率の悪い日本史バカ。ライター。歴史記事とコマーシャル記事とかコピー書いてます。日本史を日常に。

明石 白(@akashihaku) Twitter  https://twitter.com/akashihaku

 

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