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【3分で学べる】戦国あれこれ⑫ 武将のラブレター

2018/10/01
 
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武将のラブレター

 

東京大学史料編纂所に保存されている戦国時代の一通の手紙があります。受け取った人物の名は美男だったと言われる春日源五郎虎綱(かすがげんごろうとらつな)(1527~1578年)。手紙の内容は、疑われてしまった浮気について必死で弁明しているラブレターでした。そして、その差出人というのがなんと武田信玄(1521~1573年)です。

 

 

 

春日源五郎虎綱とは

春日源助とも呼ばれていた彼は、甲州の豪農・春日氏の出身でした。16歳の時に22歳の信玄に拝謁し、すぐに仕官することになりました。実は、信玄は美少年の源助に一目惚れしており、出仕し始めてたった一ヶ月で奥近習に取り立てます。源助は小姓として信玄に仕えることになったのです。

 

武家社会の小姓システム

武家社会では、武将の身の回りの雑事に女性の出る幕はありません。正室も側室も武将のお世話はしないのです。食事、身支度、掃除、外出のお供まで武将の身辺の世話一切は小姓と呼ばれる少年たちが行いました。当時、男色も武将のたしなみでしたから、夜伽(よとぎ)の相手をするのも小姓たちの仕事の一つ! そういうこともあって、小姓たちは主人の好みで、芸事にも達者な見栄えのする美少年が選ばれたのです。

 

 

さらに小姓は武勇に秀でていなければなりませんでした。主君が戦に出るときにはもちろん同行して戦うことも。小姓としての賞味期間はおおよそ14歳から18歳。短い期間でしたが、小姓たちには主君のそばで武将となるために必要なことを実地で学び、忠誠心を培い、有力家臣になっていく者も多かったのです。有名なところでは、織田信長の小姓・森蘭丸が挙げられます。

 

ラブレターの中身

さて、イケメン源助も小姓として信玄に仕えました。信玄は女性も好きでしたが、美少年も大好き。多情な信玄はちょっとしたいざこざを起こしてしまいます。信玄が同じ奥近習の弥七郎(やしちろう)を寵愛しているということが源助にバレてしまったのです。怒った源助は「最近冷たくなったのは、弥七郎のほうが好きになったからでしょ」という嫉妬の手紙を送り、拗ねてしまいました。それに対する信玄の申し開きの手紙が、先述のラブレター「天文15年(1546年)武田晴信誓詞」です。

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「弥七郎には何度か言い寄ったことがあるけど、断られたよ。嘘じゃないよ。今まで弥七郎と夜を共にしたことは一度も無いと神に賭けて誓うよ。この前もしてないし、今夜だってしないよ。こんなにあなたに手を尽くしているのに、疑われたら困ってしまうよ。もし嘘だったら神の罰を受ける覚悟だからね。誓いを神符の起請紙に書いてもいいよ」

 

これこそ信玄が25歳頃に書いた源助へのラブレターの中身です。必死の弁明と信玄の慌てぶり! なんだか可哀想なくらいです。そしてお互い恋心を持っていたんだな・・・という軽い驚きも。

 

源助のその後

信玄を狂わせ、はらはらさせた美少年源助はやはり大した小姓でした。

 

仕官当初は臆病者などと言われたこともあった彼でしたが、信玄の寵愛と教育のおかげで素晴らしい武者へと成長。

 

実はこの源助こそ、のちの高坂弾正昌信(こうさかだんじょうまさのぶ)です。彼は武田家の軍学書として知られる『甲陽軍艦』の著者。小岩岳城攻略の殊勲で150騎の侍大将に抜擢され、のちに知略に富んだ武将として武田四天王の一人に数えられる武田家重臣となった男でした。

 

おわりに

信玄25歳、源助19歳の時の痴話喧嘩の証しとなったラブレター。天下の武将・武田信玄の別の一面を見るようです。彼も人間でした!

 

 

明石 白(あかし はく)

スペイン在住という効率の悪い日本史バカ。ライター。歴史記事とコマーシャル記事とかコピー書いてます。日本史を日常に。

明石 白(@akashihaku) Twitter  https://twitter.com/akashihaku

 

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