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【3分で学べる】戦国あれこれ⑭ 本能寺の変とは何だったのか?

2018/10/01
 
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本能寺の変とは何だったのか

 

1582年6月2日。京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣である明智光秀の謀反によって襲撃された、戦国時代最後の下克上と言われる事件・本能寺の変。事件の名前だけなら、知らない人はほとんどいないくらいの日本史上屈指の有名な出来事です。

 

 

 

天下の裏切り者、明智光秀が起こした事件

明智光秀による奇襲のために、信長は反撃することもできないまま自刃しました。大成功した明智光秀は、たった三日だけの天下を取り、その後中国地方から速攻で戻ってきた豊臣秀吉によって滅ぼされてしまいます。戦国一の裏切り者として現代までその名を残した光秀がどうしてこの事件を起こしたか、その動機については未だ論争の絶えないところとなっています。

 

6月2日に何が起きたのか

織田信長は京での常宿を本能寺にしていました。6月1日に開かれた本能寺での茶会とその後の宴会が終了すると、信長は数名の近臣と共に本能寺に残り、嫡男である信忠は別の宿の妙覚寺に戻りました。

 

一方明智光秀はその夜、1万3000の軍勢を率いて信長の命令通り中国地方へ向かうと見せかけ、途中で謀反のプランを重臣に打ち明けます。そして京都の桂川を渡り切ったところで軍勢全体は目的が信長討伐であることを知らされるのです。

 

6月2日の午前6時頃、光秀軍は本能寺を完全に包囲し、一斉攻撃をしかけます。物音で目覚め、鉄砲の音で異常事態を悟り、そして、小姓の森蘭丸(もりらんまる)が「明智日向守(あけちひゅうがのかみ)殿御謀反!」と叫んだことで、全てを知った信長。手近な武器で戦ったものの、多勢に無勢でした。彼は、もはやこれまでと悟り、女たちを逃がすと建物に火を放ち、信長自身はその後奥の納戸の中で切腹したのです。

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森蘭丸をはじめとする小姓たちも、騒ぎを聞いて駆けつけた馬廻衆(うままわりしゅう)たちも討ち死にしました。そして妙覚寺にいた信忠も二条城に立てこもって光秀軍と戦いましたが、惨敗。信忠は切腹し、明智光秀の謀反は大成功に終わったのです。

 

 

ただし、のち光秀は信長の居城であった安土城に入りますが、彼の天下人としての寿命は3日間だけでした。

 

 

なぜ光秀は謀反を起こしたのか

この疑問に対する正解は未だに出ていません。もともと光秀は天下を狙う野心があったという説があります。また、信長の激しすぎる感情の起伏のために過酷な処分の犠牲になった多くの重臣たちを見た光秀が、自分の立場に不安を感じて暴君を消そうと思ったという説。さらに、人質に出した光秀の実母を見殺しにし、五歳年上の光秀を家臣たちの面前で暴行したりバカにしたりする信長への恨みがあったこと。その上、信長が光秀の丹波と近江の所領を召し上げた上で、中国征伐を彼に命じ、戦功があれば毛利領である土地を与える代わりに、戦いに勝たなければ領土が全て無くなってしまうと命令に、光秀もかなり頭にきました。これらが積もり積もった怨恨説、と言う可能性もあるのです。それ以外にも多くの説が発表されていますが、どれも決め手に欠けるため、明快な解答は見つかっていません。

 

おわりに

たった一夜で行われた歴史のどんでん返し、本能寺の変。その後の三日天下だった明智光秀。得したのは誰でしょう。豊臣秀吉の高笑いが聞こえてくるようです。

 

 

明石 白(あかし はく)

スペイン在住という効率の悪い日本史バカ。ライター。歴史記事とコマーシャル記事とかコピー書いてます。日本史を日常に。

明石 白(@akashihaku) Twitter  https://twitter.com/akashihaku

 

 

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