【3分で学べる】戦国あれこれ⑮ 戦国武将の名言 その三 

戦国武将の名言 その三 

伊達政宗(1567~1636年)

「大事の義は人に談合せず一心に究めたるがよし」

(一番大事なことは人に相談せずに自身の心で決めるべきだ)

人生の節々には決断をしなくてはいけない時があるものです。それが戦国武将の人生ならば、生死をかけた難題であることもあったでしょう。ましてや、伊達政宗ですから。

決断は自己責任

重要な決断が必要なとき、人は情報を集めてどちらを選ぶほうが有利になれるかを探ろうとします。情報が少ないと、その決断は賭けのようになってしまいますし、多すぎると迷い、混乱して分からなくなることもあります。

伊達政宗がここで述べているのは、本当に大事なことならば一人で必死に考え抜いて決断することが大事だということです。

ここぞというときの「決断力」には、すべて責任を自分ひとりが背負う覚悟が必要です。他人の意見を聞いても、意見は参考程度にとどめておき、最後には自分が決めるのです。自分の決断であれば、仮に失敗しても後悔がありません。政宗の言葉は、現代の私たちへの教訓でもあります。

スポンサーリンク



山中鹿助幸盛(1545?~1578年)

願わくば我に七難八苦を与えたまえ

(願いを聞き届けてくれるならば、我に七難八苦を与えてくれ)

戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将・山中 幸盛(やまなか ゆきもり)、またの名を鹿介(しかのすけ)が尼子家再興のために三日月に祈った言葉として知られています。この言葉をどこかで聞いたことのある人もいるのではないでしょうか。

物語のセリフ!?

実は、この言葉は山中鹿助本人が言った言葉ではないのです。山中鹿介の生涯を描いた『三日月の影』という作品で有名になったセリフです。この物語は昭和8年~20年まで12年間、小学校5年生の国語の教科書にも掲載されました。いつの間にかこれが本人の言葉だと誤解されてしまったようですが、この言葉の意味するところを理解すれば、彼の一途な生き方を理解することができるはずです。

鹿介の生涯

山中鹿介は1545年ごろに出雲国(今の島根県)に生まれ、病弱な兄に代わって山中家を継ぎます。尼子十勇士の筆頭であり、一騎打ちで多くの武将を討ち取った「山陰の麒麟児」と呼ばれる人物でした。しかし、隣国・安芸の毛利氏が毛利元就をトップに急速に勢いをつけ、山中家が仕えた尼子氏は1565年に滅ぼされてしまいます。

浪人となった鹿助ですが、仲間と諸国を流浪しながら、なお尼子家の再興のためにあらゆる努力と苦労を重ね、三度も兵を挙げました。

織田信長を頼り、豊臣秀吉に従って一時は出雲の大半を手に入れ、奪回する勢いを見せましたが、結局は強大な毛利氏の武力に阻まれます。最後は支援を得ていた織田信長に見捨てられる形で軍は壊滅。彼自身は謀略によって殺害されました。しかし、彼はその死を迎える時まで不屈の精神で尼子家の再興のためにひたすら尽力した忠臣でした。

鹿介の生き方を象徴する言葉だった

その鹿介が物語の中で月に苦労を願った言葉は、尼子氏再興を願う彼が、人は苦労や試練を経験するほど打たれ強くなり、それまで以上の力を発揮できると信じていたことを表現したものです。毛利氏にやられても、やられても立ち上がった鹿介は実際にそのセリフを言ったわけではありませんが、「尼子家再興のためにもっと強くなりたい。もっともっと」という気持ちだったことは確かでしょう。

尼子家再興のために尽くした山中鹿介の生き方を象徴したセリフに、この不器用でありながら魅力ある武将の生涯が切なく重なります。

明石 白(あかし はく)

スペイン在住という効率の悪い日本史バカ。ライター。歴史記事とコマーシャル記事とかコピー書いてます。日本史を日常に。

明石 白(@akashihaku) Twitter  https://twitter.com/akashihaku

スポンサーリンク



スポンサーリンク



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。